「重要なのは、なによりも情報化だ!」カラジアンはティオトロニクスの秩序のモットーを叫んだ。
「重要なのは、どの情報に意味があるのかを知ることだ」コストロイがいいかえす。
「そして、人はその区別を、各人が独立しておこなえなくてはならない」
テルムの女帝 より

今から35年も前、ドイツのSF小説に書かれた一節です。その頃こんなことが書けたなんてすごいことです。今、そしてこれから、まさに問われていることではないでしょうか。
今、情報はおおむね開かれていると言えると思います。それは、確かに「混乱」と言う言い訳で、押さえられているものもない訳ではありませんが、全体からみればわずかなところであり、また、ほかの情報からある程度推測が可能、または隠されているであろうことを推測できるくらいに情報化されていると思います。
そう、国によってはまだまだかも知れませんが、極東のとある国のように、おおむねであっても押さえつけることは統治者にとっても至難の業でしょう。
それでも、さらに情報化する必要があるのはたしかです。
「知恵はただ真実のなかにある」
とは、ゲーテの言葉ですが、まさしくね、真実を知らしめなければ言い知恵は出てきません。まったく、わたし自身への戒めの言葉でもあります。
そう、その上で、わたしたちはどの情報に意味があるのかを考、え知らなければ意味はありません。あふれくる情報の海は、一人の人間の処理できる限界をはるかに超えています。意味がありそうな情報を、瞬時に嗅ぎ分ける力が必要でしょう。嗅ぎ分け、意味のあるものとして、思考の材料としなければ、かけ流しの温泉のよう、浸かっていて気持ちはよいかも知れませんが、のぼせるだけです。
情報はたいていは個人のところに来る前に何らかのフィルターを通過します。そこを通った、言うなれば、気持ちのよい情報がわたしのところにやってきます。
でも、本当にそれでいいのでしょうか。
耳障りのよい情報のみを集めていてよいのでしょうか。
意味のある情報と思い、浸かっていたのが、実は為政者に都合のよいように濾過され、きれいに整えられた情報かも知れません。
それでは意味があるかのどうかの区別を各人が行っているとは言えません。
大本営発表のようなことになりますね。
そう言うことにならないためには、得た情報から思索する必要があるように感じます。また、情報の確実性あるいは胡散臭さをすばやく判断する能力が問われます。情報量が多いだけに、この能力に磨きをかけることは、意味のある情報を取ること、そして物事の的確な判断に必須と言えます。
今、この能力を得るための訓練がされているとはとても思えず、各人の価値観に委ねられているようです。
そして、意味があるかどうかを各人が行っているかたちになっていますが、はたしてそうでしょうか。そう思い込ませれているだけで、実は同じ価値観に陥っていないでしょうか。
さぁ、どうします。

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「重要なのは、どの情報に意味があるのかを知ることだ」コストロイがいいかえす。
「そして、人はその区別を、各人が独立しておこなえなくてはならない」
テルムの女帝 より

今から35年も前、ドイツのSF小説に書かれた一節です。その頃こんなことが書けたなんてすごいことです。今、そしてこれから、まさに問われていることではないでしょうか。
今、情報はおおむね開かれていると言えると思います。それは、確かに「混乱」と言う言い訳で、押さえられているものもない訳ではありませんが、全体からみればわずかなところであり、また、ほかの情報からある程度推測が可能、または隠されているであろうことを推測できるくらいに情報化されていると思います。
そう、国によってはまだまだかも知れませんが、極東のとある国のように、おおむねであっても押さえつけることは統治者にとっても至難の業でしょう。
それでも、さらに情報化する必要があるのはたしかです。
「知恵はただ真実のなかにある」
とは、ゲーテの言葉ですが、まさしくね、真実を知らしめなければ言い知恵は出てきません。まったく、わたし自身への戒めの言葉でもあります。
そう、その上で、わたしたちはどの情報に意味があるのかを考、え知らなければ意味はありません。あふれくる情報の海は、一人の人間の処理できる限界をはるかに超えています。意味がありそうな情報を、瞬時に嗅ぎ分ける力が必要でしょう。嗅ぎ分け、意味のあるものとして、思考の材料としなければ、かけ流しの温泉のよう、浸かっていて気持ちはよいかも知れませんが、のぼせるだけです。
情報はたいていは個人のところに来る前に何らかのフィルターを通過します。そこを通った、言うなれば、気持ちのよい情報がわたしのところにやってきます。
でも、本当にそれでいいのでしょうか。
耳障りのよい情報のみを集めていてよいのでしょうか。
意味のある情報と思い、浸かっていたのが、実は為政者に都合のよいように濾過され、きれいに整えられた情報かも知れません。
それでは意味があるかのどうかの区別を各人が行っているとは言えません。
大本営発表のようなことになりますね。
そう言うことにならないためには、得た情報から思索する必要があるように感じます。また、情報の確実性あるいは胡散臭さをすばやく判断する能力が問われます。情報量が多いだけに、この能力に磨きをかけることは、意味のある情報を取ること、そして物事の的確な判断に必須と言えます。
今、この能力を得るための訓練がされているとはとても思えず、各人の価値観に委ねられているようです。
そして、意味があるかどうかを各人が行っているかたちになっていますが、はたしてそうでしょうか。そう思い込ませれているだけで、実は同じ価値観に陥っていないでしょうか。
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