最近、つくづく思います。
女に生まれてよかった。
と。
女に生まれてよかった。
と。
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女性としての生活、
適当じゃん。とか、いいとこ取り。とか言われちゃいますし、
すべてがすべて女性として済ましているわけでもないので、
まだまだ本当のたいへんさがわからないのよ。
って言われれば、それはそうなのですけど…。
だけど、女性としての生活はとても楽しいし、
何より心の安定感が、心地よさ、軽さがよいです。
あっ!女性が軽いと言うことではないですよ。
あくまで私の生活の中でのお話しです。
それまでの長いあいだ、私は後ろめたさを引きずり、
心の重さに投げ出したくなる思いを抑え、
うつむき加減でこそこそとしていたのが
とてもばかばかしいことのように感じられます。
私はいったい何をしていたのだろうって。
なまじ変に器用で自分を偽ることができてしまったのが
いけなかったのでしょうか。
私なりに周囲の希望、私を見る目に、
自分自身を合わせてしまっていたようです。
今でも、本質的に協調性がなく、
必要に迫られて周囲に合わせる性格はかわっていませんが、
24時間、365日合わせ続けているわけではなく、
その場、たとえば業務上の会議の場で与えられた役割を
こなしているだけですから、気分も重荷はまったく違います。
私って、女だったんだなぁって。
でも、「性自認」は女性だ
と主張するほど確信しているわけではありません。
以前、まだ男だったときも、
心が女性なのに、からだが間違って男性だ
なんて正直言って思えませんでした。
今もそう無邪気に信じているわけではありません。
ただ、両方を経験してみて、
女性として、あるいは女性のように生活してみて、
こちらの方がはるかに自分であると言うだけです。
こういうことが女性であると言うことなのではないでしょうか。
声高に、心とからだのミスマッチを主張する方、
こう言っては失礼ですが、後付で自ら信じ込んでいるだけではないでしょうか。
私はこれでも生物系科学を学び、今もそれで生活をしています。
その立場、というか私の思いですが、
生物学的に、遺伝子も外性器も内性器も雄であることの間違いない私は
雄、人で言う男性であることは間違いありません。
また、そこに基づく社会の扱い、名付けだとか法的なものだとかが
男性扱いになっているのはやむを得ないことです。
だからどうなのでしょう。別にいいじゃないですか。
私の好きな花にマツムシソウがあります。

その花は、誰かにマツムシソウと名付けられたわけですが、
名があろうがなかろうが、確実にそこに存在しているわけですし、
生物学的にマツムシソウにあたるものがそこに咲いているのです。
そして、園芸品種としてお庭に咲いていれば、
「うちのマツムシソウ。」というある種区別があって、
もしかしたら、その個体に名前もつけているかも知れません。
だから何?
そんなのその人の思いで、存在の本質には何に関わりもありません。
改名だとか戸籍の変更にも、私にとってそんな胡散臭さがあります。
どう区別しようが、存在自体は何も変わらないんだし、
いろいろなもの、今うまく動いているものを齟齬にしてまで変更して
どんな意味があるの?
って。
まぁ、社会生活において、
見かけと社会的位置づけが一致していた方が楽な面があることは、
そのとおりだと思います。
私もこんなことを言っていてもチャンスがあれば、
ちゃっかり変更してしまうでしょう。
ある意味、こだわりがありませんから、そちらに利があればかまいません。
でもでも、本質は何も変わらないし、変えるつもりもないのは確かです。
私は私です。
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適当じゃん。とか、いいとこ取り。とか言われちゃいますし、
すべてがすべて女性として済ましているわけでもないので、
まだまだ本当のたいへんさがわからないのよ。
って言われれば、それはそうなのですけど…。
だけど、女性としての生活はとても楽しいし、
何より心の安定感が、心地よさ、軽さがよいです。
あっ!女性が軽いと言うことではないですよ。
あくまで私の生活の中でのお話しです。
それまでの長いあいだ、私は後ろめたさを引きずり、
心の重さに投げ出したくなる思いを抑え、
うつむき加減でこそこそとしていたのが
とてもばかばかしいことのように感じられます。
私はいったい何をしていたのだろうって。
なまじ変に器用で自分を偽ることができてしまったのが
いけなかったのでしょうか。
私なりに周囲の希望、私を見る目に、
自分自身を合わせてしまっていたようです。
今でも、本質的に協調性がなく、
必要に迫られて周囲に合わせる性格はかわっていませんが、
24時間、365日合わせ続けているわけではなく、
その場、たとえば業務上の会議の場で与えられた役割を
こなしているだけですから、気分も重荷はまったく違います。
私って、女だったんだなぁって。
でも、「性自認」は女性だ
と主張するほど確信しているわけではありません。
以前、まだ男だったときも、
心が女性なのに、からだが間違って男性だ
なんて正直言って思えませんでした。
今もそう無邪気に信じているわけではありません。
ただ、両方を経験してみて、
女性として、あるいは女性のように生活してみて、
こちらの方がはるかに自分であると言うだけです。
こういうことが女性であると言うことなのではないでしょうか。
声高に、心とからだのミスマッチを主張する方、
こう言っては失礼ですが、後付で自ら信じ込んでいるだけではないでしょうか。
私はこれでも生物系科学を学び、今もそれで生活をしています。
その立場、というか私の思いですが、
生物学的に、遺伝子も外性器も内性器も雄であることの間違いない私は
雄、人で言う男性であることは間違いありません。
また、そこに基づく社会の扱い、名付けだとか法的なものだとかが
男性扱いになっているのはやむを得ないことです。
だからどうなのでしょう。別にいいじゃないですか。
私の好きな花にマツムシソウがあります。

その花は、誰かにマツムシソウと名付けられたわけですが、
名があろうがなかろうが、確実にそこに存在しているわけですし、
生物学的にマツムシソウにあたるものがそこに咲いているのです。
そして、園芸品種としてお庭に咲いていれば、
「うちのマツムシソウ。」というある種区別があって、
もしかしたら、その個体に名前もつけているかも知れません。
だから何?
そんなのその人の思いで、存在の本質には何に関わりもありません。
改名だとか戸籍の変更にも、私にとってそんな胡散臭さがあります。
どう区別しようが、存在自体は何も変わらないんだし、
いろいろなもの、今うまく動いているものを齟齬にしてまで変更して
どんな意味があるの?
って。
まぁ、社会生活において、
見かけと社会的位置づけが一致していた方が楽な面があることは、
そのとおりだと思います。
私もこんなことを言っていてもチャンスがあれば、
ちゃっかり変更してしまうでしょう。
ある意味、こだわりがありませんから、そちらに利があればかまいません。
でもでも、本質は何も変わらないし、変えるつもりもないのは確かです。
私は私です。
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