トランスする道筋を考えたとき、ホルモンをはじめて、ジェンクリにも通って、周囲にカムアウトして、少し顔やからだをいじってみて、セカンド、サードと違うジェンクリに通ってみたり、SRSをして、名前変えたり、戸籍を変えたり、人によっては仕事を変えたり、引っ越しをしたり、…。
人によって、状況によって、多少順序は変わるけど、会席料理のように次々に箸をつけ、取り組み、消化していきます。一つのことが終わったり、目途がたったりすると、次のことが気になりだし、そのことが本当に必要なことかどうか吟味することもなく進んでいきがちです。
「おきまりのコース」そんな感じでしょうか。
でも本当にこれらのことを為さなければトランスできないのでしょうか?
こうしてる、あの人もこうしてトランスした、友人はあそこまでして次をめざしている等々そういう話題が周囲にあふれています。そして、私自身も、「私は私」などとうそぶいていても気になります。
しかし、全くの他者から見たとき、そんな私の姿は、屁理屈をこねて、あるいは身勝手な「こうあるべき」を決めつけているだけではないでしょうか。訳もなく、少なくとも他者を説得するだけの理窟もなく、周囲が諦めるのを期待して、歩く道を、トランスの進め方を決めつけていないでしょうか。
本当にほかに道はないの。馬鹿正直に全部しなくてもいいんじゃないの。脇にそれてみたっていいんじゃないの。
考えなくていけないことです。
しかし、そうは言っても、友人があるいは知人が次のステップに進めば心穏やかではありません。足踏みをしている自分が情けなくなったりします。先を行く人は、「ここまで来てもいいことはないよ。あなたの場所がいいみたい」などとのたまいます。それは、それ自体がいわゆる「上から目線」で、先に進んだからわかることで、真底そう思ってのアドバイスかも知れませんが、私から見れば「何を言ってるの。自分は先にいるからって勝手なことを言わないでよ」と言う思いが先立ちます。「先を行くあなたに言われたくないよ」とも。
それはちょうど山登りで、先行した人がピークに着いて、「苦労してここまで来てもブッシュで見晴が悪いよ。そこの方が景色いいよ」というようなものです。高いところに登りたくて仕方ないのですから、上から言われたって、たとえそのピークが本当にブッシュに覆われていたって登りたいに決まっています。だいたいピークまで登ったからこそ、そこがブッシュでろくなところではないとわかるのであって、仰ぎ見る私にはそんなことは実感できません。さらに言えば、たとえブッシュだって私がピークにたどり着けば、私なりの楽しみや充実感を味わえるかも知れないじゃないですか。そう思います。
私は上から目線を否定するものではなく、それどころか私自身思い切り上から目線をしていると思います。上に上がった人、先に行った人だからわかることはたくさんあって、正直同じ失敗はさせたくないと言う好意からのアドバイスであることも多いかも知れませんが、でもそこまで行きたい気持ちを萎えさせることはできません。ろくなところではないと言われればますます行ってみたくもなります。
しかし、やはり屁理屈で道筋を決めつけてはいないでしょうか。
どういう道筋で進めばいいのか、どこまで進むのが私に適切なのか、誰もがみな同じ道筋で、同じ到達点に向かわなくともいいのでしょう。しかし、今ある情報、アドバイスは当事者の先行く人からのものがほとんどです。もちろんありがたく拝聴しますが、遅れている私、うまくいかない私の嫉妬と羨望が入り込み、渦巻き、冷静に客観的に聞くことが困難です。
そこをガイドし、あるいはアドバイスしていくのがジェンクリの役割でもないでしょうか。診断書を書けばいいと言うものではなく、迷ったとき、悩んだときに、相談でき、適切な指針を示す役割も必要に思われます。そのためには、予約がなかなか取れない、一日がかりで通院しなくてはならないなんて言うことはなく、ごく近所で気軽に通院できるクリニックがあればいいのにと思います。
そんなふうになっていれば、フライングしたホルモンを変調を来すほど飲むこともなく、ことのはじめからその人にあった適切な道筋を考えていけるのではないでしょうか。もちろん道筋を決めるのは本人ですが、客観的に、多くの情報を考え合わせ導ける人がいて欲しいと思います。
とりあえず、先に進みたがりの私はそれでも何かヒントをいただけるかもしれないと、たいした期待もなく、明日川越に行きます。一昨日電話したのですが、運良く予約が取れたので、こんな思いをぶつけてきましょう。
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