序章で好井氏は性同一性障害にふれています。
性同一性障害という医学的概念が社会に広まることにより、同性愛者やトランスジェンダーなど様々な性のマイノリティの存在を生きづらくさせていると指摘しています。
それは「性同一性障害という概念の底に執拗に息づいているのは」男性は男性らしく、女性は女性らしく、そしてその上で異性愛中心主義的考え方であるということです。
もちろんそんなことはないという性同一性障害の人は多いと思います。わたし自身もそうです。しかし、残念ながら凝り固まったようにそのように考える性同一性障害の人がいることも事実でしょう。
性同一性障害の当事者はその気になり条件がそろえば正当な医療行為として治療を受け、法制度上も望む性になれ、何気に一般社会にとけ込めます。
そのことはもちろん当事者にとってはよいことですが、そのことばかりが大きくマスコミなどに取り上げられると、性的なマイノリティは病気の人で、治療の対象になり、治療さえすれば「治る」と言うような短絡的なとらえ方をされそうです。「性的マイノリティに対する理解の厚みは急速に平板なもの」となってしまうことを危惧してされています。
性同一性障害の当事者の多くは治療したからといって、手術をしたからといって、望む性になれる訳ではなく、似て非なる者にしかなれないことをわかっていると思います。ただ、マスコミは残念ながらそんなていねいで正確な解説はしません。いかに売り上げを伸ばすかが根底にある営利企業ですから、センセーショナルな扱いをされることでしょう。それでうまく治ったことにされていいのですか?
そして、性同一性障害の当事者は別の性的マイノリティであることも多いと思います。自分たちの一面を平板に安易にわかった気になられ、別の一面を差別の対象とされていいのでしょうか?
ありのままを理解していただくためには、ありのままを示すことしかないように感じます。自分にできること、それは、まず周辺からありのままを見ていただく努力でしょう。
性別を変えた人、あるいは変えようとしている人でいいのではないでしょうか。だから何?って。普通(何が普通かはここでは議論しませんが)に仕事をして、普通に遊んで、普通に生活していくことが大切なように思います。
その上で自分たちは性を超えようとしている訳ですから、そこに性別に囚われない考え方、価値観を育むことが大切なのではないでしょうか。もちろん本人が望むのなら自分が望む性別にとことんこだわってもらえばいいでしょう。ただ、自分のこだわりが人にも向かないように、社会に価値観を押しつけないようにしなければいけないと思います。
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