「自分以外の同性愛的欲望が見えにくいため、多くは『仲間』と出会うまでにある程度、待たなければならないのだ。長期間、『自分ひとりだけかも知れない』という孤立感や『誰かにばれてはいけない』という閉塞感、『こんな自分は生きる価値がない』という自己否定感を抱え続けると、身体や精神の健康に深刻な悪影響が出てしまう。」

この一文は、
「レズビアンの欲望/主体/排除を不可視にする社会について」にあるものですが、
「同性愛的欲望」の部分を「性同一性障害」や「トランスジェンダー」に置き換えても
そのまま落ち着いてしまう文です。
今でこそネットで検索すれば、
身近な誰かではなくても自分と同じような人間がいることは容易にわかりますが、
同じ学校、同じ会社、同じ街に仲間がいるかどうかはなかなかわからないと思います。
わたしが若かった頃、インターネットなんてなかったし(歳がばれますね)、
テレビに登場する本当に何人かの方が仲間かなって言う程度でした。
冒頭の引用のように、
仲間に出会うまで、いいえ仲間がいると言うことが
わかるまでとても長い間待ちました。その間、
「わたしだけなんでこんななんだろう」
とか
「絶対人に知られてはいけない」
とか
「消え入りたくなような罪悪感」
を感じ続けたものです。
でも、実は当時だって今と同じように性同一性障害の当事者が
存在したはずですよね。
ただその姿がお互いに不可視であったことが
孤立を深め、
閉塞感を生み、
否定的な生き方
に繋がっていったのでしょう。
そう思い返すと、今はよい時代です。
そして、わたしも遅ればせながらそこに乗り、
とっても遅い青春を謳歌させていただいています。

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「レズビアンの欲望/主体/排除を不可視にする社会について」にあるものですが、
「同性愛的欲望」の部分を「性同一性障害」や「トランスジェンダー」に置き換えても
そのまま落ち着いてしまう文です。
今でこそネットで検索すれば、
身近な誰かではなくても自分と同じような人間がいることは容易にわかりますが、
同じ学校、同じ会社、同じ街に仲間がいるかどうかはなかなかわからないと思います。
わたしが若かった頃、インターネットなんてなかったし(歳がばれますね)、
テレビに登場する本当に何人かの方が仲間かなって言う程度でした。
冒頭の引用のように、
仲間に出会うまで、いいえ仲間がいると言うことが
わかるまでとても長い間待ちました。その間、
「わたしだけなんでこんななんだろう」
とか
「絶対人に知られてはいけない」
とか
「消え入りたくなような罪悪感」
を感じ続けたものです。
でも、実は当時だって今と同じように性同一性障害の当事者が
存在したはずですよね。
ただその姿がお互いに不可視であったことが
孤立を深め、
閉塞感を生み、
否定的な生き方
に繋がっていったのでしょう。
そう思い返すと、今はよい時代です。
そして、わたしも遅ればせながらそこに乗り、
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