母の実家の近くにあった、もちろん今もありますが、
大きな公園には、大きな泉がありました。

大きな大理石の真ん中から水が湧き出ています。
絶えることなく、しかもかなりの量です。
それは子どもにとっては、
不思議な場所であり、そしてかっこうの遊び場でした。
そして、その泉は子どもの目には大きな森の奥深くにありました。
そこまで行くのは、ある意味、この世界から切り離された、
橋の向こう側に渡るような意味合いがあったように思います。
そう、人間として生活しているわたしが、
本来のわたし、すなわりニンフだったり、妖精だったりに戻れる世界。
一種の異境だったのでしょう。
母親や祖父母、大人と行ってもそこは橋のこちら側でした。
子どもだけで行くと、
いいえ、実際はかなり幼かったはずですから、
遠巻きに大人に見守られていたのでしょうけど、
橋の向こう側の世界になったのです。
そんなころから、わたしは二つの世界を器用に行き来してしまうところが
あったように思います。
そんなところ、今も変わらず持ち合わせています。
それが人から見たときのわたしのわかりづらさ、
不思議さに繋がっているようです。

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大きな公園には、大きな泉がありました。

大きな大理石の真ん中から水が湧き出ています。
絶えることなく、しかもかなりの量です。
それは子どもにとっては、
不思議な場所であり、そしてかっこうの遊び場でした。
そして、その泉は子どもの目には大きな森の奥深くにありました。
そこまで行くのは、ある意味、この世界から切り離された、
橋の向こう側に渡るような意味合いがあったように思います。
そう、人間として生活しているわたしが、
本来のわたし、すなわりニンフだったり、妖精だったりに戻れる世界。
一種の異境だったのでしょう。
母親や祖父母、大人と行ってもそこは橋のこちら側でした。
子どもだけで行くと、
いいえ、実際はかなり幼かったはずですから、
遠巻きに大人に見守られていたのでしょうけど、
橋の向こう側の世界になったのです。
そんなころから、わたしは二つの世界を器用に行き来してしまうところが
あったように思います。
そんなところ、今も変わらず持ち合わせています。
それが人から見たときのわたしのわかりづらさ、
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