いま、我が家はお引越をしようと作業を始めています。
とりあえず箱詰め。
なかなか進みません。

目に見えて片付かないことに苛立ちを覚えます。
こんなに片付かないのなら、
いっそのことわたしを片付けてしまえばよいのかとも短絡的に考えます。
物と持ち主の関係は相対的なものです。
わたしがいるからわたしのものがあって、
捨てられないとか片付かないとか思い悩むので、
主であるわたしがいなくなれば、
その途端、物は解き放たれるでしょう。
それとも誰かに引き継がれちゃうのかな。
そうするとその人が困るのかも知れません。
それはわたしとしても困るような、どうでもよいような…。
いずれにしても、わたしとわたしのものとの関係は終焉します。
一つの方策ですね。
玄関を出て、8階の柵を乗り越え、飛べば、決着です。
…。
それも無責任が過ぎるかな。
それなら、思い切って、
わたしが生の証しとして溜め込んできた物たちを
わたしの手で葬って、
そして、生の証しのなくなったわたしも生を中止すると言うのが
けじめでしょうか。
もしかすればわたしは再生するかも知れませんし、
終わるかも知れません。
今の気分としては終わることが望みですが、
再生するのも悪くはないでしょう。
再生すれば、新たなスタートが切れるかも知れませんし、
また終わることもできますものね。
そこには喜びももしかしたらあるかも知れません。

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とりあえず箱詰め。
なかなか進みません。

目に見えて片付かないことに苛立ちを覚えます。
こんなに片付かないのなら、
いっそのことわたしを片付けてしまえばよいのかとも短絡的に考えます。
物と持ち主の関係は相対的なものです。
わたしがいるからわたしのものがあって、
捨てられないとか片付かないとか思い悩むので、
主であるわたしがいなくなれば、
その途端、物は解き放たれるでしょう。
それとも誰かに引き継がれちゃうのかな。
そうするとその人が困るのかも知れません。
それはわたしとしても困るような、どうでもよいような…。
いずれにしても、わたしとわたしのものとの関係は終焉します。
一つの方策ですね。
玄関を出て、8階の柵を乗り越え、飛べば、決着です。
…。
それも無責任が過ぎるかな。
それなら、思い切って、
わたしが生の証しとして溜め込んできた物たちを
わたしの手で葬って、
そして、生の証しのなくなったわたしも生を中止すると言うのが
けじめでしょうか。
もしかすればわたしは再生するかも知れませんし、
終わるかも知れません。
今の気分としては終わることが望みですが、
再生するのも悪くはないでしょう。
再生すれば、新たなスタートが切れるかも知れませんし、
また終わることもできますものね。
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